深川ルートの6景
第1景 図版番号 32 安政4年(1857)11月
深川万年橋(ふかがわまんねんばし)
歌川広重「名所江戸百景 深川万年橋」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
Photo by jmho, Wikimedia Commons(Public Domain)
| いまの場所 | 万年橋 |
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| 住所 | 江東区清澄1丁目・常盤1丁目(小名木川が隅田川に注ぐ地点) |
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| 最寄り駅 | 都営大江戸線 清澄白河駅から徒歩7分 |
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| 滞在の目安 | 約15分 |
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橋の欄干からぶら下がる亀に目を凝らしてください。ただの亀ではなく、放生会(ほうじょうえ)で川へ逃がすために売られていた「商品」です。「鶴は千年、亀は万年」——万年橋の名にかけた広重お得意の洒落で、亀の甲羅越しにちゃっかり富士山まで覗かせる、江戸っ子好みの一枚。今も同じ場所に架かる橋ですが、広重が見たのは初代ではなく、関東大震災後の昭和5年(1930)に架け替えられた復興橋。橋そのものは変わっても、水と橋のある風景はちゃんと今に続いています。
橋のすぐそばには、俳人・松尾芭蕉が晩年を過ごした芭蕉庵の跡地(芭蕉稲荷神社)があります。あの「古池や蛙飛びこむ水の音」も、実はこの界隈で詠まれたという説があるほど。今の橋は関東大震災からの復興橋(昭和5年/1930)で広重が見た橋そのものではありませんが、水と橋のある風景と芭蕉ゆかりの地という空気は、160年以上経った今もちゃんと息づいています。
あわせて寄りたい:清澄庭園徒歩7分ほど
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が、社員の慰安や賓客のおもてなしのために造った回遊式庭園。大小の名石を池に配した「磯渡り」が名物で、水辺つながりで足を延ばすのにぴったり。
出典・参考:https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004043/
第2景 図版番号 13 安政4年(1857)8月
深川八まん山ひらき(ふかがわはちまんやまびらき)
歌川広重「名所江戸百景 深川八まん山ひらき」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
Photo by Guilhem Vellut, Wikimedia Commons(CC BY 2.0)
| いまの場所 | 富岡八幡宮(通称・深川八幡宮) |
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| 住所 | 江東区富岡1-20-3 |
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| 最寄り駅 | 東京メトロ東西線 門前仲町駅から徒歩4分 |
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| 滞在の目安 | 約20分 |
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年に一度だけ扉が開く、特別公開の庭。富岡八幡宮の別当寺・永代寺の庭園は普段は非公開でしたが、弘法大師の命日法会にあわせて「山ひらき」として開放されました。ツツジやハナカイドウが咲き乱れる池端を、花見客でごったがえす一大イベントとして広重は描いています。描かれた永代寺の庭園は明治の廃仏毀釈で失われたため、その本社として同じ場所に鎮座し続ける富岡八幡宮を現在地としています。
この八幡様、実はある偉業の出発点でもあります。日本地図を作った測量家・伊能忠敬は、すぐ近くの深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に暮らし、蝦夷地(北海道)へ向かう第一歩となった寛政12年(1800)の測量旅行をはじめ、10回の旅の出発前には必ずここで無事を祈願しました。2001年に建てられた境内の伊能忠敬像は、まさにその「出発の一歩」を再現した姿です。広重が描いた永代寺の庭園自体は明治の廃仏毀釈で失われましたが、8月の例大祭「深川八幡祭り」は江戸三大祭のひとつとして今も健在です。
あわせて寄りたい:深川不動堂徒歩1分
成田山新勝寺の東京別院で、富岡八幡宮のすぐ隣。護摩祈祷の太鼓と読経が絶えない、下町らしい熱気のあるお寺です。
第3景 図版番号 91 安政4年(1857)8月
深川三十三間堂(ふかがわさんじゅうさんげんどう)
歌川広重「名所江戸百景 深川三十三間堂」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
Photo by Tak1701d, Wikimedia Commons(Public Domain)
| いまの場所 | 三十三間堂跡(建物は現存せず) |
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| 住所 | 江東区富岡2丁目付近 |
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| 最寄り駅 | 門前仲町駅から徒歩8分 |
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| 滞在の目安 | 約5分 |
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京都の三十三間堂をそっくり移築した、スケールの大きい話。名物は本堂の軒下を矢で射通す「通し矢」競技で、若者たちが丸一日かけて矢数を競いました。お堂自体は明治5年(1872)に解体されてしまい、跡地は今ではごく普通の住宅地。当時の熱気を伝えるのは小さな碑ひとつだけですが、その場所に立って想像してみてください。
元禄16年(1703)、この地で驚異の記録が生まれました。石川美作守の家臣・梶川勝蔵という、なんと12歳の少年が一昼夜で1万本以上(10,011本)もの矢を射通したのです。そんな熱気に包まれたお堂も、元禄14年(1701)の移築から明治5年(1872)の解体まで170年ほどの命。今では跡地はごく普通の住宅地で、通し矢の熱気を伝えるのは小さな碑ひとつだけです。
あわせて寄りたい:法乗院(深川えんま堂)徒歩5分ほど
高さ3.5mの巨大な閻魔大王像が本尊。賽銭を投げ入れると、願い事の種類に応じて100種類以上のお告げをしてくれる、ちょっと変わったお寺です。
出典・参考:https://koto-kanko.jp/tourism/detail_spot.php?sid=S00104
第4景 図版番号 24 安政3年(1856)8月
深川木場(ふかがわきば)
歌川広重「名所江戸百景 深川木場」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
Photo by Kentin, Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)
| いまの場所 | 木場公園 |
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| 住所 | 江東区木場4丁目・平野4丁目 一帯 |
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| 最寄り駅 | 東京メトロ東西線 木場駅から徒歩5分 |
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| 滞在の目安 | 約20分 |
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雪の日、材木を組んだ筏の上を身軽に渡り歩く木場の職人。足場も命綱もない丸太の上を平然と歩く姿は、現代人からすると目眩がする曲芸すれすれの日常風景でした。描かれた貯木場そのものは昭和末に新木場へ移転し、水面の多くは埋め立てられて今の木場公園に。かつての木場の記憶をとどめる場所として、この公園を現在地に選んでいます。
この材木の町を語る上で欠かせないのが、豪商・紀伊国屋文左衛門。元禄期に幕府御用達の材木商として巨万の富を築き、店を深川に移して今の木場の礎を築いたとも言われる伝説の人物です。吉原を一晩借り切って豪遊した、大坂で疫病が流行ると聞くや江戸中の塩鮭を買い占めて相場を動かした、といった破天荒な逸話に事欠きません。晩年は深川一の鳥居近くでひっそり暮らしたとか。その木場も、貯木場は昭和末に新木場へ移転し、水面の多くは埋め立てられて木場公園になりました。
あわせて寄りたい:東京都現代美術館(MOT)木場公園内
木場公園の中にある、日本最大級の現代美術の美術館。広い公園を歩いたあとにアートで一息つくのにちょうどいい距離です。
第5景 図版番号 25 安政4年(1857)閏5月
深川洲崎十万坪(ふかがわすさきじゅうまんつぼ)
歌川広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
Photo by Mizushimasea, Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
| いまの場所 | 洲崎神社 |
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| 住所 | 江東区木場6-13-13 |
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| 最寄り駅 | 木場駅から徒歩2分 |
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| 滞在の目安 | 約10分 |
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雪の舞う空から、一羽の鷲が獲物めがけて急降下する——静止した一枚の絵に、これほどの躍動感を詰め込んだ広重の技巧に脱帽です。海側から見下ろす鳥瞰構図で、荒涼とした埋立地の冬景色を描いています。描かれた埋立地そのものは寛政3年(1791)の大津波で壊滅的な被害を受け、長らく人の住めない土地になりました。今もその記憶を伝えるのは洲崎神社に残る「波除碑」だけなので、この神社を現在地としています。
初日の出や月見、潮干狩りを楽しむ行楽地として賑わったこの一帯は、寛政3年(1791)の大津波で一変。壊滅的な被害を受け、以来長らく人の住めない土地になりました。今も残る洲崎神社の「波除碑」が、その教訓を静かに伝えています。
あわせて寄りたい:富賀岡八幡宮(元八幡)徒歩15分ほど
富岡八幡宮の「本家」を名乗る、通称「元八幡」。深川の八幡様のルーツをたどりたい人向けの、少し脚を伸ばした先にある穴場です。
出典・参考:https://susakijinja.or.jp/
第6景 図版番号 89 安政3年(1856)7月
小奈木川五本まつ(おなぎがわごほんまつ)
歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン)
| いまの場所 | 小名木川五本松(碑・復元) |
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| 住所 | 江東区猿江2-16 |
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| 最寄り駅 | 都営新宿線 住吉駅から徒歩12分 |
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| 滞在の目安 | 約5分 |
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実はまっすぐな小名木川を、広重はわざと大きく湾曲させて描きました。理由は単純、その方が五本松の枝ぶりが映えるから。塩を運ぶ行徳船が松の枝の下をくぐり抜ける、演出過剰気味だけど憎めない一枚です。松自体は明治末に一度枯れてしまいましたが、昭和63年(1988)に同じ場所で植え直され、80年越しに里帰り。今見られるのはその「復元」の五本松です。
この松、なんと8代将軍・徳川吉宗のお墨付きでした。九鬼家の屋敷から川面に張り出した見事な枝ぶりを吉宗が褒めたことから江戸中の評判となったと伝わります。松尾芭蕉もこの木陰に舟を停め、「川上と この川しもや 月の友」の句を残しました。将軍と俳聖、両方に愛されたこの松は明治末に一度枯れましたが、昭和63年(1988)に現在地で復活。80年越しの里帰りを果たしました。
あわせて寄りたい:猿江恩賜公園碑は公園内にあります
五本松の碑が実際に立っている、広い都立公園。かつて材木蔵があった場所で、木場と並ぶ深川の「木の町」としての歴史を今に伝えます。
出典・参考:https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/16075.html